ダイハツ・ジーノミニライトスペシャル660㏄旧所旧跡散策
屋代清水遺跡
森将軍塚古墳のある山麓から発掘された、屋代清水遺跡の古墳時代中ごろのムラには、人びとが居住する竪穴住居や、物置に使われたとみられる小屋、収穫物を貯蔵する高床倉庫などがありました。
市内屋代地籍の屋代清水遺跡は、長野県立歴史館の建設にあたり、発掘調査がおこなわれました。この遺跡は調査の結果、縄文時代後期(およそ 3,500年ほど前)から弥生時代古墳時代と続いた集落の遺跡であることがわかりました。またそれ以降は、水田として利用されてきました。 公園内に復原した『科野のムラ』には、発掘された家・物置小屋や倉庫をはじめ、ムラの儀式の場などが復原されています。また、田んぼや畑も作られており、当時の人びとの生活の様子がわかります。 (看板に明記されていました)
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-川中島の合戦と雨宮の渡し-
「雨宮の渡し」は、昔、北国街道の要衝にあって千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な場所であった。 このため天文永禄年間、10年にもおよぶ甲越2軍の合戦のうち、最も有名な永禄4年の攻防においても、 この「雨宮の渡し」を制するか否かで、その後の戦術、戦況を左右した重要な地点となっていた。 合戦のおり甲斐の武田信玄は、 諏訪、松本地方から、信濃への侵入と共に、佐久、上田方面からも信濃奪取の野望に燃えて北信濃の諸城を攻め、 幾たびか戦いを挑んでいた。 天文22年、この武田軍に打ち敗られた坂城の葛尾城主、村上義清は、遠く越後の春日城に逃れて、 時の城主、上杉謙信に助けを求めた。 このとき謙信は、たび重なる武田軍の信濃侵入がやがて越後にも及ぶことを恐れ、 また理不尽な略奪とばかり義憤に燃えて直ちに兵を整え北信濃へ向けて東西2方面から川中島へ進出した。
善光寺を通過した上杉勢は、「雨宮の渡し」の重要さを知って、これを渡り、「渡」を制圧し東方の妻女山に陣をはった。 一方武田勢は妻女山の北方約3kmの海津城にこもり、たがいに要衝のため譲らず、対峙したまま日が過ぎていった。 やがて戦機が熟し、まず武田勢は兵を2隊に分け、1隊で妻女山の後方から攻め、上杉勢を川中島平に追出し、別の1隊は、 これをまち受け、迎撃せん滅しようとした。 しかし、これを事前に察知した謙信は、夜半、 急遽行動をおこし、人馬ともに静かに鞭声粛々と「雨宮の渡し」を押し渡り川中島平に進撃した。 このとき川中島平一帯は早暁の濃霧がかかり武田軍はこの動きを全く知らなかった。 やがて濃霧がうすらぐと同時に武田勢の眼前には、大牙(旗)を擁した上杉の大軍が突如現われ、疾風のようにおそいかかった。
上杉名代の「車懸」の戦法に、さしもの武田勢の陣形もゆらぎ、のの混乱に乗じて、謙信は一気に敵の本陣へ斬りこみ、 ここに有名な両雄の一騎打ちが、行われたのである。 しかし謙信としては残念ながら遺恨10年の一剣も実らず、遂に手傷を負わせただけで長蛇(信玄)を逸してしまった。 この戦いを雄渾に謳いあげたのが有名な頼山陽の詩、「川中島合戦」である。
当時の要塞、「雨宮の渡し」も幾百年もの時がたつにつれて、千曲川の流れも北に移動し、現在は豊穣な農地となって、 往時をしのぶすべもない。
地元ではこれを惜しみ、頼山陽の真筆「川中島合戦」の大碑を建て旧蹟を保存している。
【雨宮の渡し碑より】
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長野県松代の清水寺にいます。
清水寺縁起
信州の古刹、真言宗豊山派・龍燈山蓮華院清水寺(通称:北信濃厄除大師)は、もろもろの災厄をことごとく消除する厄除大師として、霊験あらたかなことは、むかしから有名であります。総本山は奈良・長谷寺です。
開山は今から1200年ほど前、延暦22年(803年)、寛空上人が開山したと云われており、坂上田村麻呂が東北に遠征に向かった際に、戦勝祈願が為に建立されました。
開山当時は「当村十二原に七堂伽藍備わり居りし」と云われておるように、五重塔・金堂・書院・回廊等が備わった大規模な伽藍を有した寺院だったと云われておりますが、創建後しばしば火難に遇いました。
火難により一時衰亡に瀕したものを川中島決戦の折、武田信玄公より供料を給わり伽藍を再建いたしました。依って武田家が中興開墓となっております。
江戸時代に入り、徳川家の祈祷寺として供料を給わりました。その際、三葉葵を寺紋として頂いております。また、松代藩の城主である真田家のお殿様は、菩提寺とここ清水寺の二箇寺においては、お殿様と云えども馬を降りてから門をくぐらなくてはならないほど、格式の高い寺院でありました。
その後、江戸時代正徳年間(十八世紀初)の火難により善美壮麗を尽くした堂塔伽藍は悉く焼亡し、享保年間(十八世紀初)、十二原から少し山を下った現在地に仮堂を建立し移転いたしました。
(長野県庁所蔵・寺院明細帳参照)
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軽井沢から佐久方面に走り日本最古の洋風学校「旧中込学校」に歴史の散策に来ています。
旧中込学校は木造二階建寄棟屋造、棧瓦葺、中央部八角塔屋付この塔屋、玄関やバルコニー、青い鎧戸、丸窓のステンドグラスなどに、ルネッサンスの香りを感じられる、文明開化の明治初期が偲ばれる。当時は西洋づくりの旧中込学校はギヤマン学校とも呼ばれていたらしい。
明治5年(1872)明治政府により学制が発布された。翌年9月、村内の小林寺を仮校舎にあて、男子122人、女子44人、合計166人の児童を集め「成知学校」が始まった。
明治8年、アメリカで建築技術を学んで帰国した村内の大工、市川代治郎によって、洋式建築の校舎では日本初といわれる旧中込小学校(重要文化財)が建てられた。この建築の総工費は、6,098円51銭8厘で、費用のほとんどを村内全戸、或いは篤志者による寄付金で賄った。白米1升6銭の当時この寄付金を思うと、一寒村にもかかわらず、教育に寄せる村の人たちの情熱が伝わってくるようだ。(説明書きが有りました)
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旧中山道坂本宿スタート走ること数十分旧18号碓氷峠を快適ドライブ。あと21㎞で軽井沢、県境長野県に入りました。
山は紅葉、落葉樹は葉を落としています。
長野県のカーコンビニ倶楽部太陽自動車さんのイベントを紹介します。
長野県長野市川中島今里1065-11
TEL 026-286-5105 freedial 0120-098-014
URL http://www4.ocn.ne.jp/~taiyo/
10月31日~11月1日と両日年に1度のお客様感謝イベントが盛大に開催されました。
初日は天気に恵まれました。
2日目は午後からは天気が崩れてきましたが、とても盛況なイベントでした。
両日とも抽選会開催、豪華な賞品を用意されていました、スパークパルスも賞品の中に有り今回は当選者様(おめでとうございます)お一人が御来店され装着の様子を紹介いたします。
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群馬の山岳路ドライブは、山を下り旧中山道坂本宿の前にまた山、碓氷峠でもうすぐ長野県に入ります。峠攻めの前にダイヤルを8(パワーゾーン2,000~4,000回転)に変更して峠を攻略。
パワーゾーンが16チャネルも有るので面白く、楽しんで運転しています。
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非力なエンジンで山道のドライブを楽しんでいます。スパークパルスV12-Ⅱ型は、可変ダイヤルのチャネルによってベストポジションの選択が可能。ダイハツ・ジーノミニライトスペシャル只今はパワーゾーン1,500~3,500回転のCポジションを選択、群馬県安中の山の中を力強く進んでいます。注意看板はどの標識も汚れがひどい山の中???もう少し掃除すれば???よく見えるのに!!
ダイハツ・ジーノミニライトスペシャル660㏄ 歴史と神話の山戸隠散策。
山岳信仰と神秘の山戸隠
一説には現在の奥社の創建が孝元天皇五年(紀元前210年)とも言われるが、縁起によれば学問なる僧が奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされている。また日本書紀の天武紀には684年三野王を信濃に派遣し地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせたとある。そして持統天皇が691年に使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせ、この時犀角牙笏を奉納したとされていて、この水内の神が戸隠神社とする説もある。その後平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。山麓の善光寺とも関連を強め、参詣者は一度に両寺を共に参詣することが多かった。戦国時代は武田信玄と上杉謙信との争乱に巻き込まれ、両軍によって絶えず危機に晒されたため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に移り住むなど苦境の時期であった。しかし、江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立。同時に東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となった。提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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山道のドライブを続けていると、とんでもない所に今度は看板が有り停車。良く見ると観光案内のマップが薄汚れていて見づらいがとりあえず撮ります。今度は何を見つけるかワクワクで出発今回のドライブは目的地が無い行き当たりばったりのを旅楽しんでいます。