ダイハツ・ジーノミニライトスペシャル660㏄ 歴史と神話の山戸隠散策。
『戸隠神社』五社参拝
戸隠五社
奥社:天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)
中社:天八意思兼命(あめのやごころおもいのかねのみこと)
宝光社:天表春命(あめのうわはるのみこと・中社祭神の御子神)
末社 九頭龍社:九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ 岩戸守大神)・一説に天手力雄命荒御魂
摂社 火之御子社:天細女命(あめのうずめのみこと)
戸隠三社:奥社・中社・宝光社
戸隠神社は戸隠山麓に5社から構成されている。
「天の岩戸」が飛来して戸隠山となったという神話時代より発展し「天の岩戸開き神事」に関係する神々を祀っている。
戸隠奥社を本社として伝説としては創建年代は第八代孝元天皇の5年ころ(皇紀207=紀元前453年)といわれている。
記録の上では奥社は任明天皇嘉祥三年(850)、中社は寛治元年(1087)、宝光社は康平元年(1058)。
平安時代は修験道場として栄え、神仏習合時代は「戸隠山顕光寺」と称し「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ比叡山・高野山と肩を並べる「三千坊三山」と言われるほどに繁栄。
奥社は「奥院」「本院」、中社を「中院」「富岡院」、宝光社を「宝光院」「福岡院」と呼称し、戸隠権現と称した。
江戸期には徳川家の保護を受けて「東叡山寛永寺」の末寺となる。
明治期には神仏分離し寺院は切り離され「戸隠神社」として現在に至る。
明治社格では元県社であったが、明治二十三年に国幣小社列格。
戸隠神社書より
ダイハツ・ジーノミニライトスペシャル660㏄ 歴史の山戸隠散策。
戸隠山
長野県北部、新潟県境に近い長野市戸隠地区にある山。標高1904メートル。戸隠連峰の主峰で、戸隠山と南西方の西岳(2030メートル)を戸隠連峰の表山といい、戸隠山の北部に連なる五地蔵(ごじぞう)山(1998メートル)、高妻(たかつま)山(2353メートル)、乙妻(おとつま)山(2318メートル)を裏山とよんでいる。凝灰岩質集塊岩からなる戸隠山の山容は東側からみると、絶壁の急崖(きゅうがい)で山稜(さんりょう)は鋸歯(きょし)状をなしている。山岳信仰に発した神仏混交の霊場であるが、平安時代から山伏の修験場(しゅげんじょう)として知られた。山頂直下南東方に戸隠神社奥社があり、山麓(さんろく)に中社と宝光社がある。戸隠という地名は天岩戸(あめのいわと)伝説にちなみ、戸隠神社の祭神の一つ、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が投げた岩戸がこの地に飛んできたことから生じたといわれる。戸隠山の中心である八方睨(はっぽうにらみ)へは戸隠奥社から約2時間の行程であるが、蟻ノ戸(ありのと)渡り、剣ノ刃渡りなどの難所があって危険を伴う。八方睨からは北アルプスなどの展望がすばらしい。上信越高原国立公園の一部。
日本大百科全書 (執筆者:小林寛義)
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戸隠山五社巡り
戸隠神社の五社目、奥社
戸隠神社の五社目、奥社
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
日本神話にある、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きになった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始まります。
戸隠神社の御本社として全国に開運、心願成就、五穀豊熟などの御神徳が広宣され多くの崇敬者が登拝されます。
参道は約半里(2キロ)、中程には萱葺きの赤い随神門があり、その先は天然記念物にも指定されている樹齢約400年を超える杉並木が続いています。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』明記
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戸隠山五社巡り
戸隠神社の四社目、九頭龍社(くずりゅうしゃ)
祭神は九頭龍大神。奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている
雨乞の話(神話)
戸隠の九頭龍権現と水に関わる伝説も有名です。
戸隠には今も日照りの時など雨乞いのために登山する信者が多くあります。そして戸隠の山奥にある種池という池から、お水を戴き、桶にいれて、戸隠神社にお供えし、そこで神主から雨乞いの祈願をしてもらい、その水を絶対に地につけないように大事に、自分の郷里の氏神様の田圃まで運び、そこで祈願の報告をして、それぞれの田圃に注ぐと、忽ち恵みの雨を降らせてくれるという。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』明記
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戸隠山五社巡り
戸隠神社の三社目、火之御子社(ひのみこしゃ、日之御子社とも書く)
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
創建は天福元年(1233年)。祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。他に高皇産霊命(たかむすびのみこと)、その娘である栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)、栲幡千々姫命の夫である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀る。天鈿女命は天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神。舞楽や芸能、また火防の神とされ、宝光社の上1.5kmほどの場所にある。尚、他の4社が神仏混淆であった時代も当社だけは一貫して神社であって、かつての顕光寺とは関係がない。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』明記
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戸隠山五社巡り
戸隠神社のニ社目、中社。
中社 天思兼命 あめのおもいかねのみこと
中社現在地への鎮座は寛治元年(1087年)、宝光社と同時期に奥社の相殿として創建された。現在の祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)で、天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神。知恵の神ともされる。境内周辺には樹齢約900年の三本杉があり天然記念物に指定されている。火之御子社の上1.5kmほど。旧中院。
•フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』明記
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飯綱神社
飯綱山(1,917m)
■■■■飯綱山の伝説■■■■
かって飯綱山山頂に「てんぐの麦飯」という食べられる砂があった。 村の凶作のときに飯綱三郎天狗がこの砂を配り、人々を救ったという伝説がある。 飯綱山の名前の由来もこの食べられる砂「飯砂」によると言われる。
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長野県善光寺
信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。 『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。
草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。平安後期・12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えています。また、11世紀前半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる民間僧が本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して、全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。また、信仰の拡大に伴い、ご分身仏が作られるようになりました。
鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立され、御本尊の模刻像が多く造られました。現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝し、ご仏徳を深く心底に感得されました。
戦国時代に入ると、善光寺平では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り、川中島の合戦を繰り広げました。弘治元年(1555年)、武田信玄は御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊様は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって慶長三年(1598年)、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになられました。
戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされましたが、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き、一生に一度は善光寺詣りをと、多くの人々が参詣されました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴でした。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。江戸時代に入ってからも火災に遭いましたが、御本尊様の分身仏である前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって集められました浄財をもって、宝永四年(1707年)には現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられました。(長野県庁所蔵・寺院明細帳参照)
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永禄4年(1561)9月10日の合戦
八幡原は永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで、武田信玄の本陣が置かれた場所とされています。信玄は、高坂昌信(春日虎綱)率いる別働隊を、上杉謙信が籠もる妻女山に向かわせ、別働隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。
後世、啄木鳥戦法と呼ばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公山本勘助の発案だったとされています。しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰に紛れていち早く妻女山を下ったため、9月10日朝、信玄の本隊は別働隊の到着を待たずに上杉軍との戦端を開きます。
激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刀斬りつけ、信玄は床机(しょうぎ)に座ったまま軍配でそれを受けたとされる「謙信・信玄一騎討ち」の伝説もこの戦いで生まれました。(看板解説より)
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佐久間象山公の由来
象山は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の業績を残したにも関わらず現在に至るまで象山の評価が低いのも、彼の性格の由来するところが大きいと言う人もいる。しかし当時の日本において、象山は紛れもない洋学の第一人者だった。彼を斬殺した河上彦斎が、後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという逸話からも、そのことを窺い知ることが出来る。更に彼の門弟には前述の吉田をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。
• 自らを「国家の財産」と自認しており、坂本龍馬に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女性を紹介してほしい」と頼んだこともある。しかし彼の息子・三浦啓之助も象山同様素行が悪く、大成するどころか新選組を脱走する事態を招く。
• 真実かどうかは定かではないが、ペリーが唯一頭を下げた日本人であるとされる。
• 勝海舟の妹の順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので義兄となったが、傲慢な象山をあまり高く評価していない。氷川清話によると、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。双方とも自信家過ぎてそりが合わなかった、と見える。
• 和歌や漢詩、書画に巧みだった。岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』によれば、七絃琴や一絃琴も好んで奏でていたという。
• 嘉永4年(1851年)に江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという。 (解説より)