ダイハツ・ジーノミニライトスペシャル660㏄ 歴史と神話の山戸隠散策。
山岳信仰と神秘の山戸隠
一説には現在の奥社の創建が孝元天皇五年(紀元前210年)とも言われるが、縁起によれば学問なる僧が奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされている。また日本書紀の天武紀には684年三野王を信濃に派遣し地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせたとある。そして持統天皇が691年に使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせ、この時犀角牙笏を奉納したとされていて、この水内の神が戸隠神社とする説もある。その後平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。山麓の善光寺とも関連を強め、参詣者は一度に両寺を共に参詣することが多かった。戦国時代は武田信玄と上杉謙信との争乱に巻き込まれ、両軍によって絶えず危機に晒されたため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に移り住むなど苦境の時期であった。しかし、江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立。同時に東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となった。提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』