ダイハツ・ジーノミニライトスペシャル660㏄旧所旧跡散策
佐久間象山公の由来
象山は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の業績を残したにも関わらず現在に至るまで象山の評価が低いのも、彼の性格の由来するところが大きいと言う人もいる。しかし当時の日本において、象山は紛れもない洋学の第一人者だった。彼を斬殺した河上彦斎が、後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという逸話からも、そのことを窺い知ることが出来る。更に彼の門弟には前述の吉田をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。
• 自らを「国家の財産」と自認しており、坂本龍馬に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女性を紹介してほしい」と頼んだこともある。しかし彼の息子・三浦啓之助も象山同様素行が悪く、大成するどころか新選組を脱走する事態を招く。
• 真実かどうかは定かではないが、ペリーが唯一頭を下げた日本人であるとされる。
• 勝海舟の妹の順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので義兄となったが、傲慢な象山をあまり高く評価していない。氷川清話によると、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。双方とも自信家過ぎてそりが合わなかった、と見える。
• 和歌や漢詩、書画に巧みだった。岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』によれば、七絃琴や一絃琴も好んで奏でていたという。
• 嘉永4年(1851年)に江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという。 (解説より)