ジーノぶらり旅 NO.10

カテゴリー: 日記

ダイハツ・ジーノミニライトスペシャル660㏄旧所旧跡散策

-川中島の合戦と雨宮の渡し-

「雨宮の渡し」は、昔、北国街道の要衝にあって千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な場所であった。 このため天文永禄年間、10年にもおよぶ甲越2軍の合戦のうち、最も有名な永禄4年の攻防においても、 この「雨宮の渡し」を制するか否かで、その後の戦術、戦況を左右した重要な地点となっていた。 合戦のおり甲斐の武田信玄は、 諏訪、松本地方から、信濃への侵入と共に、佐久、上田方面からも信濃奪取の野望に燃えて北信濃の諸城を攻め、 幾たびか戦いを挑んでいた。 天文22年、この武田軍に打ち敗られた坂城の葛尾城主、村上義清は、遠く越後の春日城に逃れて、 時の城主、上杉謙信に助けを求めた。 このとき謙信は、たび重なる武田軍の信濃侵入がやがて越後にも及ぶことを恐れ、 また理不尽な略奪とばかり義憤に燃えて直ちに兵を整え北信濃へ向けて東西2方面から川中島へ進出した。
善光寺を通過した上杉勢は、「雨宮の渡し」の重要さを知って、これを渡り、「渡」を制圧し東方の妻女山に陣をはった。 一方武田勢は妻女山の北方約3kmの海津城にこもり、たがいに要衝のため譲らず、対峙したまま日が過ぎていった。 やがて戦機が熟し、まず武田勢は兵を2隊に分け、1隊で妻女山の後方から攻め、上杉勢を川中島平に追出し、別の1隊は、 これをまち受け、迎撃せん滅しようとした。 しかし、これを事前に察知した謙信は、夜半、 急遽行動をおこし、人馬ともに静かに鞭声粛々と「雨宮の渡し」を押し渡り川中島平に進撃した。 このとき川中島平一帯は早暁の濃霧がかかり武田軍はこの動きを全く知らなかった。 やがて濃霧がうすらぐと同時に武田勢の眼前には、大牙(旗)を擁した上杉の大軍が突如現われ、疾風のようにおそいかかった。
上杉名代の「車懸」の戦法に、さしもの武田勢の陣形もゆらぎ、のの混乱に乗じて、謙信は一気に敵の本陣へ斬りこみ、 ここに有名な両雄の一騎打ちが、行われたのである。 しかし謙信としては残念ながら遺恨10年の一剣も実らず、遂に手傷を負わせただけで長蛇(信玄)を逸してしまった。 この戦いを雄渾に謳いあげたのが有名な頼山陽の詩、「川中島合戦」である。
当時の要塞、「雨宮の渡し」も幾百年もの時がたつにつれて、千曲川の流れも北に移動し、現在は豊穣な農地となって、 往時をしのぶすべもない。
地元ではこれを惜しみ、頼山陽の真筆「川中島合戦」の大碑を建て旧蹟を保存している。
【雨宮の渡し碑より】

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